◇山田次朗吉◇
       (明治の剣聖)


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***** 生い立ち *****

■文久3年9月(1863年) 千葉県君津郡富岡村下郡大鐘(現:木更津市下郡)の名主、与吉の長男として誕生。幼少時代から脆弱な体質であった。結婚し、妻と二男一女をもうける。

*****●【剣聖への道】● ***** 

■明治17年10月(22歳) 富岡村に立てられた強兵館道場の道場開きに招待された●【榊原鍵吉】●と出会い、その威容剣風に●【感銘】●を受け、直ちに入門を決意した。 
■明治18年9月(23歳) 家出同然で上京して、榊原道場に入門した。
■明治27年元旦(32歳) 榊原先生より●【鹿島神傳直心影流】●第15代正統者(『一徳斎』と号す)を継承する。(拝受した伝書は全部で九巻)。さらに、榊原道場も引き継ぐ。
■明治27年10月(33歳) 北白川宮成久王殿下並びに輝久王殿下の師範を仰付けられた。
■明治28年(34歳) 下谷車坂の榊原道場を再興して、門人を教導する。
■明治34年5月(39歳) 東京高等商業学校(現:一橋大学)剣道部師範となる。
■明治35年4月(40)歳) 東京帝国大学剣道師範となり、同38年5月辞職する。
■明治36年4月(41)歳) 明治22年から榊原の代理で務めていた駒場農林学校(後の東京帝大農学部)剣道部の正式な師範となった。(大正15年9月に辞職)
■明治37年4月(42歳) 東京府立第三中学校剣道教師となり、大正8年3月辞職す。/同年市区改正により、車坂の榊原道場を本郷東竹町に移し、勝海舟の書「百錬自得」より「百錬館」と命名す。
■明治38年4月(43歳) 東京府立園芸学校の剣道師範となり、大正9年9月辞職す。
■大正6年(55歳)〜 この年より毎年鹿島に参拝、御手洗池に身を清め、神前に法定を奉納す。

***** 剣の修行による「感」の冴え *****

■大正7年(56歳)の春 その年内に起こる世界的流行感冒(インフルエンザ)を予言する。
■大正8年(57歳) 4年後の関東大震災(大正12年9月、1923年)を予言した。
■大正9年(58歳)の正月 年始の挨拶に行った弟子に「皆、おめでとうと言うが、何がおめでたいものか。今に東京の市民が大勢死んでしまうのに…」と言っているし,彼を取材した記者には「大正13年頃までに,この帝都に一大天災が起こる。おそらく大地震かと思う。7〜8万人は死ぬだろう」と語った。
■大正14年(62歳)(1925) 名著●【日本劔道史】●を発刊する。その中で,剣の修行を通じて人生の●【仁義道徳】●を学ぶというテーマを力説している。

***** 死 *****

■昭和5年1月9日(68歳) 1930年、愛弟子大西英隆(24歳)の家で逝去された。1月12日、東京商科大学剣道部葬として一ツ橋道場において告別式が挙行され、「一徳斎水心如月居士」の遺骨は、郷里富岡村大鑓の●【墓所】●に埋葬され、記念碑は、鹿島神宮御手洗池の畔に建てられた。


***** 最後にレポーターから一言 *****

〜剣豪への道〜
それは、長さ180cm、質量10kg程の棒で毎日2000回以上素振りし、腕周り55cm以上にならないと道は開けないということでしょうか?(※お断り::あくまでも自己責任でお願いします。)

 また、あの有名な芥川龍之介が府立三中の学生だったころの剣道の先生が山田氏だったそうです。『大東京繁盛記下町編』の「本所両国」で、芥川は山田のことを描写して、「先生の劒道は封建時代の劒客に勝るとも劣らないであろう。」とか「仙人になる道も修業していた。」などと書いています。明治・大正・昭和を見渡しても、このような人物はいなかったと言われる程偉大な人物が地元出身であることに誇りを感じます。
 尚、そんな偉大な「一徳斎山田次朗吉先生」の徳を称えて、●【山田次朗吉杯争奪剣道大会】●が平成10年から開催されるようになり、今年(平成20年1月27日)が第11回になることも付け加えておきます。